私自身は、比較法研究を熱心にしてきたとは、到底言えません。また、比較法という研究の手法については、長らく懐疑的でもありました。にもかかわらず、近年では、比較法研究の重要性を痛感することが少なくありません。
各方面からお叱りを頂戴しそうですが、懐疑的であった理由、重要性を痛感する理由について、それぞれ述べたいと思います。このエントリでは、前者について取り上げます。
なお、以下は、混沌とした記述になります。様々な偶然の出会いが研究のあり方を決める面もあり、私の研究スタイルが計画的/論理必然に今のようなものとなった、というわけではないからです。
私は、1989年に大学に入り、1993年に大学院に入りました。この頃の刑法研究*1は、ドイツの議論を勉強して日本の範とする、というスタイルが一般的でした*2。私は共犯論(とりわけ共同正犯論)をテーマとして研究をスタートしましたから、日本の議論をあれこれと勉強することと並行して、ロクシンの研究書を読む、という作業をしていました。
もっとも、この過程で、いくつかの発見がありました。
それは、(1)共同正犯の「本質」を巡る(とされる)争い(行為共同説と犯罪共同説の争い)は、フランスにおける議論を参考にしつつ、(わが国においてこの問題をはじめて意識的に論じた牧野英一によれば)わが国独自の議論として提起されたこと、(2)わが国では早くから共謀共同正犯が実務上認められたことによって、正犯概念を巡る議論が、学説とはかみ合わない形で展開され、この齟齬の原因が学説における比較法研究重視にあるのではないかと思われたこと、(3)共謀共同正犯の是非については、手続法にかかる議論もなされてきたこと、です。
(1)については、拙著『正犯と共犯を区別するということ』(2005年、弘文堂)15頁が参考になるかと思います(宣伝)。
(1)・(2)からは、ドイツの議論と独立した解釈論というものがあり得るのではないかという思いを深めました。また、(3)からは、ドイツ法以外を対象とした比較法研究が可能/必要なのではないかと考えるに至りました。
なお、(3)について若干付言するならば、以下のようなこととなります。
ある時、刑法について「母法」であるドイツ法の議論を参考にするのであれば刑事訴訟法については「母法」たるアメリカ法を参考にしないとならないのではないか、と思いつきました*3。もちろん、あまりにも単純すぎる思いつきであることは否定し難く、まさに「思いつき」の域を出ないのですが、ともかくアメリカ法の勉強を始めました*4。アメリカは連邦制ですから、連邦法の他、各州法があり(むしろ一般の犯罪については、各州法こそが主役です)、また、俄に勉強し始めたため土地勘もなく無手勝流でした。このため十分に研究できたとは言えませんが、この過程で、「母法」でない国との比較法研究というものがあり得るのではないか、ところでそもそも比較法研究ってなんだろう、と感じる/考えるに至ったのです。
このような経緯で、私自身は、徐々に、比較法という手法を研究の中心に据えることに、躊躇いと疑問を感じるようになりました。この頃(2000年代前半)、法科大学院の立ち上げや、前任校での大学改革を巡る様々なあれこれに従事していたこともあり、研究者としての青春時代(30代前半はきっとそうなのでしょう)にじっくりと勉強する時間を取れなかったこともあって(まあ言い訳ですが)、わが国の判例をじっくり読み、また、わが国の隣接諸領域の議論*5(刑事訴訟法、憲法……)を参照する、という手法に変わりました。