首都大学東京法学系の紀要である法学会雑誌の56巻1号(前田雅英教授退職記念号、川村栄一教授退職記念号)に、「『共謀の射程』について」と題する小稿を載せて頂きました。
「共謀の射程」という概念は、私の見るところ、最判平成6年12月6日刑集48巻8号509頁や東京地判平成7年10月9日判時1598号155頁をきっかけとして、講学上用いられることとなったものです。近年では、十河太朗教授による詳細な検討*1を経て、この概念の位置付けや内容等につき、議論が盛んです。
師の退官をお祝いする論集に「共謀の射程」というテーマを選んだ理由は、複数あります。
現在の議論の状況に照らして重要なテーマであるから、ということは言うまでもありません。
また、拙稿にも書きましたが、前田先生がかなり早い段階で「共謀の射程」概念を使用された*2ことも、退官記念論文集にこのテーマで書きたいと考えた理由の一つです。
さらに、ごく個人的な思い出もあります。拙稿の末尾に書きましたので、引用します(拙稿・前掲445頁)。
本稿が議論の手がかりとした最高裁平成6年判決は、筆者が大学院在学中に演習で報告の対象とした判例である。当該報告は活字として公刊するには至らず、デビュー論文の一部分となったのみであるが、筆者にとっては思い入れも思い出もある判例である。本稿は、同報告に対する、およそ20年遅れの補足である。
本稿執筆に際し、南大沢の法学部棟4階にあった前田雅英先生の研究室においてご指導を賜った場面が、何度も鮮明に思い出された。
私はあの頃の先生の年齢を超えつつあるが、先生の背中は未だ遙か遠い。非才の身としては、せめて少しでもその距離を縮められるよう努力を重ねるほかない。
私は、平成元年4月、慶應義塾大学法学部法律学科に入学しました。前田雅英先生のお姿を初めて拝見したのは、大学入学直後の4月、日吉の講義教室においてのことでした*3。
大教室は学生で溢れかえっていました。当初配当されていた大教室では座席が足りず、翌週からより大きな部屋へと教室が変更されたことをよく覚えています。教室変更の理由は、1年生向けの科目であったにもかかわらず上級学年の学生が大勢潜っていたためでした。
教室は熱気に溢れ、「何者かになりたいが、何者になりたいか分かっていない若者」であった私はすぐに魅入られました。先生に憧れ、一歩でも近付きたいと思い、研究者を志したのは、ごく自然なことでした。
東横線沿線にあった東京都立大学八雲キャンパスや、平成3年に移転した同大学南大沢キャンパスまでモグリの学生として通い、平成5年4月からは、大学院生として先生にご指導を賜る僥倖に恵まれました。
あれから、あっという間に四半世紀以上経ってしまいました。先に引用したように、本稿は、大学院時代に行った不十分な報告に対する、約20年遅れの補足です。
」