先のエントリでは、私が比較法研究という手法を研究の中心に据えなかった理由/経緯を述べました。
もっとも、近年では、私は、比較法研究の重要性を痛感するに至っています。
その理由は以下のように、複数あります。
- 立法の高速変動
- 相対的な視点の必要性
- グローバル化
順次敷衍しましょう。
1点目については、「立法の高速変動*1」が指摘される時代においては個々の立法の是非や意味を論ずべき場面が少なくないが、 その際、諸外国の法制度についての知見が役立ち得る、ということが指摘できます。
法制度は、個人の生活等に密接に関連していますから、(議論の余地はあろうかと思いますが、)いろいろな制度を試行してみる、という「実験」はしにくいところがあります。ある制度を導入すべきか論ずる際には、この「実験」にかえて、諸外国における経験を参考*2にする、ということが有用です*3。
2点目は、1点目に関して言及した立法論について妥当するとともに、解釈論にも影響するでしょう。
解釈論においては(あるいは、「おいても」)、様々な「常識」(当然の前提として共有されているものごと)があり得ます。しかし、そのような「常識」は疑いの余地がないものでしょうか。わが国における議論だけでなく広く諸外国の議論を参照することは、そのような「常識」が、真に「常識」であるのか否かを確認する手がかりになるでしょう。諸外国で幅広く共有されている考え方であれば、その「常識」は尊重されるべきものである可能性が高まります。他方で、諸外国の議論においては必ずしも当然の前提とされていないことが確認されれば、「常識である」という認識は、単なる思い込みかもしれません。諸外国の議論を参照することは、わが国の議論を相対的に見つめる力を我々に与えるでしょう。
3点目は、グローバル化との関係です。グローバル化がよいことであるのか否かは、ここでは措きます。暫定的に言えるのは、その是非に拘わらずグローバル化は現実である、ということでしょう。
そうだとすれば、我々は、諸外国の法制度を含むあれこれを知らなければなりません。これらの知識は、グローバル化する世界を生きるために不可欠になるのでしょう。もちろん、あらゆる個人に不可欠かどうかは、考えどころではありますが*4。
比較法研究の重要性を基礎付ける事情が、仮に上述のようなものである場合、あるべき比較法研究の姿も、おぼろげながら浮かび上がってきます。おそらく、いずれの観点からも、複数の国を対象とした比較法研究が要請されるでしょう。もちろん、個々の研究者が複数の国を対象として研究を深めるということができれば理想的ですが*5、それが様々な制約から困難であるとしても、少なくとも、学界全体として様々な国を対象とした研究を蓄積する必要がありそうです。
*1:井上達夫「特集にあたって(特集・立法学の新展開)」ジュリスト1369号(2008年)8頁以下は、「立法の高速変動」・「立法のインフレーション」という言葉を用いて、立法が活発化していることを指摘しています。
*2:参考にする際の作法に関し考えるところについては、またいずれ。
*3:共謀罪創設の是非につき、アメリカ法を参考にこのようなことを試みたものとして、拙著『刑事立法と刑事法学』(2010年、弘文堂)84頁以下、とくに161頁以下があります(宣伝)。
*4:この発想は、谷口功一『ショッピングモールの法哲学』(2015年、白水社)に拠ります。
*5:個別にお名前を挙げませんが、近年では、実在します。